オールドメディアの驕り -実名報道問題によせて-

ぼくはニュースを最近よく見る。(新聞媒体やテレビではなくネットを通じてだけれども)ネットの浸透により個人の情報発信力が格段に増した2019年においても、1次ソースであるいわゆるマスコミ、オールドメディアの果たす役割が大きい。一方で、報道という大義名分をもとに活動しているオールドメディアの活動やあり方に多くの市民が違和感を唱えていることに注目しなければならない。NHKスクランブル化問題もその片鱗だ。

 

さて、いまぼくが再考したいのは、例の京アニテロ被害者の方々の実名を、8月27日に京都府警が発表した後、堰を切ったようにオールドメディアが報道をしたことである。被害者の実名報道については、京アニ本社や代理人弁護士の桶田大介氏が予てから自粛を呼びかけていた。にもかかわらず、オールドメディアは取ってつけたようなエクスキューズと共に、躊躇なく、遺族の意向をスルーして報道に踏み切った。

 

SNSなどをみるに、一般の人々には不快感・嫌悪感を示している意見が圧倒的である。以下の記事にもあるように、8月20日に報道12社による在洛新聞放送編集責任者会議が京都府警に実名公表を求めたのに対し、反対署名活動が行われた。(結局は7日後に府警は公表に踏み切った訳だが)

 

 

マスコミの「身元公表」要求に反発も 京アニ犠牲者めぐり反対署名に9000筆(JCASTニュース)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190821-00000012-jct-soci&p=2

 

 

この一件でのメリット・デメリットを、我々一般人・被害者に近しい方々・オールドメディアの三者に分けて考えてみたい。

 

まず一般人について。一般人も京アニに個人的な思い入れのあるぼくのような人と、事件が起きるまでさして関わりのなかった人に分けて考える。

 

まず前者については極めて主観的な想いになるけれども、余計なことをしてくれるな、というのが率直な想いである。作画監督クラスの方々の安否については概ね推測できるし、キャリアの浅い方々については知る必要もないと思う。無論ご遺族が情報を発信することを望んでいるケースはその限りではないが、今回は20名のご遺族がそれを望んでいないというのが明らかになっている以上、そのご意向を汲んでそっとしておきたいという想いだ。ぼくはそういうこともあり、自主的にニュースを見るのはやめていたのだが、偶々テレビで報道を耳にしてしまい、強い不快感が湧いた。

 

一方、後者については、より詳しく報道がなさなければ実感としてこの事件の悲惨さが伝わってこないというのも確かだろう。35人の才能と熱意あるアニメーターが亡くなり、四肢切断などの言葉にしようもない悲惨な状態におかれている方々がいる。それは頭では理解できても

実感として受け止めるためには、実名や人となりをはじめとした具体的な情報が知りたい、知ることによってより理解が深まるという事実もあるだろう。ただし、ここでも強調しておくが、20名のご遺族の方々は報道を望んでいないのである。それについてはニュースではほとんど伝えない。

 

被害者に近しい方々については、想いを察するに余りあるけれども、敢えて想像するならば、ただただ深い悲しみと喪失感に打ちのめされていることだろう。犯人への怒りや故人の生き様を知って欲しいという気持ちもじきに生まれてくるだろうが、それはあくまで二次的な感情である。いち早く亡くなられた息子さんのことを知って欲しいと取材に応じていた方もいたが、四十九日すら終わっていない今の段階でその心境に当たるのはなかなかできないことだ。亡くなった方への弔いや、自身の日常生活を粛々と営んでいくなかで少しずつ次のステップに進んでいけるものだと思う。そういう状況下でそっとしておいて欲しいと考えるのは極めて自然な感情であろう。ましてや、実名報道がされることにより生じるであろうオールドメディアの慇懃無礼な取材やSNSなどの匿名メディアでの無責任な憶測など邪魔なものでしかない。少なくともある程度時間が悲しみを癒してくれるまでは、ひっそりと悲しみに向き合い続けることが残された者が悲しみを越えて生きていく最も有効な手段だと思う。

 

ではオールドメディアはどうか。彼らは事実を周知させることが使命と疑ってやまず、かつそれで飯を食う人間であるから、実名報道することに躊躇するはずもないだろう。まだ良心の呵責がある関係者もいるかもしれないが、少なくとも新聞社やテレビ局という団体としてのスタンスとしては「正義」であるというのが実際のところではなかろうか。特にこのたび京都府警という国家権力の「お墨付き」を得たことで嬉々として報道に踏み切ったことは想像に難くない。ましてや、ぼくが前のブログで触れたように、8月に入って進捗がなく「ネタ切れ」状態だったのだから。

 

以上を踏まえると、実名報道によって得をするのは、それで飯を食うオールドメディアのみと言えるだろう。敢えて厳しく言うが、オールドメディアは被害者の墓場荒らしをしたのだと考える。先の記事でも、在洛新聞放送編集責任者会議は「事件の全体像が正確に伝わらない」と主張しているが、被害者の個人情報が事件の全体像を伝えるのにマストと言い切れる根拠は何か。また、以前に日本新聞協会と日本民間放送連盟は共同声明で「実名発表はただちに実名報道を意味しない。私たちは、被害者への配慮を優先に実名報道か匿名報道かを自律的に判断し、その結果生じる責任は正面から引き受ける。」と述べているが、今回の件についてそれが当てはまると胸を張って言えるのか。

 

今回の件を受けてAbema TVで行われた議論は、肯定否定両方の立場から発言できる識者によるとても意義深いものだった。

 

 

小籔千豊「何が”知る権利”やねん」”京アニ”報道めぐってメディアに批判殺到、実名を伝える必要はどこまで?(AbemaTIMES)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190828-00010015-abema-soci

 

 

それぞれの見解は記事を参照されたいが、共通した見解は、時代に即して議論が必要だということ。オールドメディアが自発的に議論することに期待など持てないが、世論が活発になればオールドメディアも動かざるを得なくなる。なお、オールドメディア寄りの立ち位置にいるにもかかわらず、議論を重ねた結果名前を伏せたAbema TVの真摯な態度は評価に値する。

 

歴史を俯瞰すると報道が市民の知る権利を支えてきたことは確かである。だからこそ、日本のみならず諸外国でも実名報道が主流である。しかしネットにより個々人が情報発信の術を手にした今、そのあり方を見直すのは当然の話である。実名報道のあり方についても、慣習だからで通る時代ではなくなっている。オールドメディア自身だけがそのことに気づいていない。いや、気づいていながら飯の種を失うことを恐れているがゆえに固執していると言ったほうが正確かもしれない。オールドメディアの持つ情報発信力は権力であり、しばしば暴力として振る舞う。彼らが時代の変化に合わせてそのあり方を変えていくことを望む。さもなくば市民がノーを突きつけ、社会から退場いただくことになるだろう。

 

最後に、オールドメディアの本来の使命である報道の可能性について紹介している放送作家の岡野勇氏のコラムを紹介したい。

 

 

京アニ事件から1ヶ月 暴力性にメディアはどう向き合うのか(otocoto)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190825-00010001-otocoto-ent&p=2

 

 

見えない恐怖というテロの本質について誰もがどう向き合えばいいのか困惑している中、8月18日に毎日放送MBS)が報道特番として放送した『祈りの夏・聖地の声 ~京アニに伝えたい感謝の言葉~』に岡野氏は注目した。それは事件そのものに触れることはなく、京アニの作家そのもの・作品・そして作品で人生の何かが変わった受け手にフォーカスして、生み出されたものについて伝える番組だった。岡野氏は「事件について伝え続けていくことはメディアの使命だろう。だが、その“力”を紹介し、理不尽を生み出した者たちに「君のそれは無意味である」と突きつけることもメディアにやれることであるのかもしれない。」と述べているが、この点については心から同意する。

 

ぼくはかなりの怒りにまかせて今回のブログを書いた。しかし、京アニテロについては以前に書いたように、思い遣りや祈りこそがこの大きな傷を癒していける唯一の方法だと考えている。いま必要なのは意味のない事実や紋切り型の悲劇を伝えることではなく、被害者と近しい人々を最大限に守ること、そして作品からもらった喜びや笑いや希望を再確認すること。ここにいる一京アニファンの想いが一人でも多くの人に届くことを願っている。