日本新聞協会「実名報道に関する考え方」批判

 私が京アニ事件について、時系列を追った報道のあり方と、その姿勢についての批判をしてからはや2年以上が経つ。容疑者の青葉真司への刑事裁判は遅々として進まず、その間に世間はコロナという大きな災禍に見舞われ、事件はもはや人々の記憶から半ば忘れ去られようとしている。そこに、先日日本新聞協会が発表した「実名報道に関する考え方」という声明を目にした。京アニ事件にある程度深く足を突っ込んだ身としては見過ごす訳にはいかない。私はこの声明にじっくりと目を通し、あれから報道の倫理は変わったのかどうかについて注目することにした。

 

実名報道に関する考え方」日本新聞協会

https://www.pressnet.or.jp/statement/report/220310_14533.html

 

 内容については実際に各々目を通して頂けると幸いである。ここでは5つの観点からQ&Aで日本新聞協会としての見解を述べている。私はその主張の要約とそれに対する批判を以下に述べることにする。

 

Q1:なぜ事件の犠牲者を実名で報じるのですか?

(要約)

  殺人という社会的不正義について、社会で情報が共有され、論じられていくことが不可欠である。その情報の伝達や記録を行うことは報道機関の責務である。そして、被害者の名前を共有することは人々に他人事と思わせず議論を促す力になる。(だから実名報道を行う。)

  以下具体例、2012年の無差別殺人についての New York Timesの報道、2006年海の中道の飲酒運転死亡事故で家族を失った父親が写真を報道機関に提供した話、1999年桶川ストーカー殺人事件の被害者両親が講演等で事実を訴え続けた話、沖縄戦阪神大震災の記念の刻銘の話。

(批判)

 話の流れに対して批判的視点を持たずに読み進めていくと、なんとなく共感しそうな文章である。しかし、聡明な読者の方はもうお気づきかと思うが、この文章は「意図的な問題の摺り替え」を行なっている。犯罪についての事実を広く知らしめることの重要性、そして報道機関がその責務を負っていることに異論はない。しかし、実名報道を行うことについての必然性については巧妙に無視されている。その後の怒涛の具体例の列挙で、あたかも実名報道が必要不可欠であるかのような印象を読者に与えようとしているが、「報道機関が被害者家族の意向を無視してまで実名報道を強行すること」とは何ら関係ないことに気づく。

 要するに、以前から問題の本質は「報道機関が実名報道を行うこと」ではなく、「報道機関が被害者家族の意向を無視して実名報道を強行すること」の是非なのである。言い換えれば、知る権利とプライバシー権の対決である。私が知る限り、京アニ事件の一連の報道のなかで、新聞社やテレビ局は「我々は特権を与えられた機関である。だから我々においては知る権利はプライバシー権に優越する」という傲慢な姿勢を横並びで取っていた。笑止千万である。

 報道機関は特権階級ではない。ましてや個々人がSNS等で情報を発信できるようになった現代に於いて、マスコミだけがプライバシー権を侵害してまでも報道をすることが可能だという強弁に誰が肯首しようか。一言で言おう。これはマスコミの時代錯誤な特権意識からくる驕りである。法的にはともかく倫理的に許されるはずがない。

 

Q2:遺族などの匿名希望は考慮していますか?

(要約)

  実名報道の必要性は社内でも悩みながら議論し、事件ごとに判断して行うようにしている。また、状況に応じての対応も行なっている。例えば、「繰り返し名前を見るのが苦痛だ」とする遺族の声が上がった際には当初は実名でもその後は匿名にする場合がある。

(批判)

 まず、「基本的に実名報道を目指す」という前提からして間違っている。実名報道はある面で有用な情報ではあるが、最優先されるべきは遺族や関係者の意向である。ましてや実名報道した後に匿名にするなど笑止千万である。知りたければバックナンバーを遡ればいいだけのことなのだから。ネットの情報拡散性について触れているが、それが解っているのならば一度ネットの世界に流出した情報はデジタルタトゥーとして二度と元に戻せないという現実についても周知のはず。にも拘らず、遺族の意向を後回しにしてまで実名報道を行うというスタンスが狂っている。

 そもそもマスコミの武器とは何か。情報の速報性と拡散性か? かつてはそうであったかも知れないが、個々人が発信者たり得る現代に於いてそれを人々はそんなものは求めていない。もし報道機関に現代的役割があるのだとすれば、情報の正確性と中立性であろう。それではカネにならぬという声が聞こえてくるような気がするが、そんなことは我々の知ったことではない。組織として個人に圧倒的に優越した取材力があるのだから、そのリソースを正確性と中立性に注ぐべきであろう。逆に言えば、それらを欠いた情報を垂れ流すマスコミになぞ何の価値もない。

 実名報道のやり方に話を戻すと、まずどれだけ時間と手間がかかっても遺族の意向を最優先させるべきである。そこには取材する側の誠意が問われる。混乱と悲しみに暮れる遺族の心に寄り添い、遺族が被害者について広く知って欲しいと願った瞬間に初めて実名報道が許されるのである。

 

Q3:実名の報道は報道側の利益のためではないのですか?

(要約)

  金儲けのためでは全くない。報道は人々の「知る権利」に奉仕することである。名前は個人が唯一の存在であることを物語るものである。ゆえに実名報道が必要不可欠である。

 具体例、2012年中央道笹子トンネル事故で娘を亡くされた父親の談話、1997年神戸連続児童殺傷事件の被害者父親の談話。

(批判)

  ここにも論理の飛躍があることに注目して欲しい。報道が人々の知る権利に奉仕すること、ここはその通りだが、その知る権利に実名報道は必要条件たり得る説明は一切ない。それは当然であろう、必然性がないのだから。あるのはマスコミのエゴのみである。

 百歩譲って、利益のためにやっているのではないという主張については一部納得してもよいかもしれない。特に現場に近い記者などは、ジャーナリストとしての使命感で動いているのも事実であろう。しかし、使命感や正義感ほど恐ろしいものはない。自らの行為を無条件に正当化してしまうからだ。例えば、内ゲバで何十人と殺した連合赤軍も使命感や正義感で動いていたことは想像に難くない。極端に言えば、当人の使命感や正義感は二の次三の次である。繰り返し強調するが、何よりも優先されるべきは被害者遺族の意向である。

 ちなみに、マスコミが右肩下がりに減収減益しているのは周知の事実である。世界一の発行部数を誇った読売新聞はピークの2001年の約1028万部から2020年には約776万部と25%近い激減をしている。

(https://www.otokunamiyateu.com/entry/yomiuri-newspaper)

  またフジテレビは約90億円の特別損失を計上してまで早期退職者を募っている。

(https://bunshun.jp/articles/-/51864)

  これらの事実が即ち実名報道に利益を求めている根拠とは言えないが、マスコミがかつての強大な力を失い、存在意義を問われていることは間違いないと言えよう。

 

Q4:犠牲者や遺族のプライバシーを侵害していませんか?

(要約)

 プライバシー意識の拡大によりプライバシーという言葉の定義が含まれる範囲も広がっているが、法的には、社会の正当な関心に応える内容などであればプライバシー侵害は成立しない。また、故人になるとプライバシー権は消滅する。(個人情報保護法も故人は対象外である)

 ところで報道機関は法のみを考えて意思決定している訳ではない。故人の尊厳や遺族の意向に配慮する必要がある。

 具体例、2008年の警視庁による「犯罪被害者に関する国民意識調査」では、プライバシーを侵害する報道がなされていると一般人の77%が回答したのに対し、被害者やその家族は3%に過ぎなかった。

(批判)

 幾分弱気な主張である。法的には故人にプライバシー権がないことに触れながら、だからと言って〜と留保をつけているところに、問題の本質はそこにないことをわかっているのだろうことが窺える。

 まず断言しておくが、これは法的な問題ではなく倫理道徳的な問題である。だから故人のプライバシー権のくだりは一切意味をなさない。一言で言えば、被害者家族に筋を通しているか否か、それだけの話なのである。通しているのならば何ら問題はないし、通していないのならばいくら錦の御旗を掲げようと実名報道は許されるものではない。

 警視庁のアンケートについても触れておく必要があるだろう。これは重犯罪(殺人・傷害、交通事故、性犯罪など)に関しての一般国民と被害者との意識の乖離についてのアンケートであり、実名報道の問題とも深く関わる資料なので概要に目を通すことをお勧めしたい。

 

【概要】

(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/report/h20-2/pdf/gaiyou.pdf)

【報告書】

(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/report/h20-2/index.html)

 

 注目すべき点は、「報道関係者からしつこく取材を受けている」「事件に直接関係のないプライバシーに関する報道をされている」の2項目について、国民一般と犯罪被害者に大きな乖離があることであろう。これは日本新聞協会の指摘の通りである。しかしながら、例え少数であろうとしつこい取材やプライバシーを侵害した報道をされていると感じた犯罪被害者がいる時点でアウトだと言わざるを得ない。これらはゼロでなければならない。

 また付け加えると、このアンケートの対象である「犯罪被害者」に交通事故犯罪などの、一般的に重犯罪と捉えられていない方々が多数含まれることにも留意が必要である。(交通事故犯罪においてしつこい取材を受けることやプライバシーを侵害されることがしばしば起こることであろうか?)

 

Q5:遺族などへの取材では、どのような配慮をしていますか?

(要約)

 いわゆる「メディアスクラム」については過去にも批判を受け、報道各社・新聞協会は改善に努めてきた。今では事件事故の発生直後に遺族が深い悲しみと混乱の中にあることを知っている。だからこそ適切な取材を心がけ、記事にする際にも最大限の注意を払っている。

 ところで、近年ネットでは匿名のアカウントによるデマや中傷が深刻な問題となっている。しかし名前が隠されなければならない社会が健全だとは思わない。報道機関として事実を正確に伝えることと公正さに努めていく。

(批判)

 メディアスクラムをしてはならないのは当然のことである。また、犯罪被害者の心に寄り添うこと、これも記者である前に人間として不可欠なことである。それを理解しているのならば、これからもそのままやればよい。

 だからと言って実名報道が無条件に許されることはない。(ここでまた問題の摺り替えをしていることを見逃してはいけない) 繰り返し述べるが、犯罪被害者の実名を(身内が望んでもいないのに)公表される正義など微塵も存在しない。メディアは特権階級ではない。言葉巧みに問題の本質から逃げようとしているが、「犯罪被害者(と家族)の許可なき実名報道はモラル面で全面的に許されない」ことのコンセンサスを一般国民の間に形成しておくことが不可欠である。

 

(終わりに)

 これらを踏まえ、私は日本新聞協会にこの批判に対する回答を要求することにした。私の批判に合理的な反論ができるのならば堂々とすればよい。しかし無視は絶対に許さない。発言力のある組織としての声明なのだから、責任を持って批判に対して誠実に回答するべきである。その後の経過については、また改めて発表していくつもりである。

 

 私はマスコミの横暴と徹底的に戦っていくことをここに宣言する。

 

 

オールドメディアの驕り -実名報道問題によせて-

ぼくはニュースを最近よく見る。(新聞媒体やテレビではなくネットを通じてだけれども)ネットの浸透により個人の情報発信力が格段に増した2019年においても、1次ソースであるいわゆるマスコミ、オールドメディアの果たす役割が大きい。一方で、報道という大義名分をもとに活動しているオールドメディアの活動やあり方に多くの市民が違和感を唱えていることに注目しなければならない。NHKスクランブル化問題もその片鱗だ。

 

さて、いまぼくが再考したいのは、例の京アニテロ被害者の方々の実名を、8月27日に京都府警が発表した後、堰を切ったようにオールドメディアが報道をしたことである。被害者の実名報道については、京アニ本社や代理人弁護士の桶田大介氏が予てから自粛を呼びかけていた。にもかかわらず、オールドメディアは取ってつけたようなエクスキューズと共に、躊躇なく、遺族の意向をスルーして報道に踏み切った。

 

SNSなどをみるに、一般の人々には不快感・嫌悪感を示している意見が圧倒的である。以下の記事にもあるように、8月20日に報道12社による在洛新聞放送編集責任者会議が京都府警に実名公表を求めたのに対し、反対署名活動が行われた。(結局は7日後に府警は公表に踏み切った訳だが)

 

 

マスコミの「身元公表」要求に反発も 京アニ犠牲者めぐり反対署名に9000筆(JCASTニュース)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190821-00000012-jct-soci&p=2

 

 

この一件でのメリット・デメリットを、我々一般人・被害者に近しい方々・オールドメディアの三者に分けて考えてみたい。

 

まず一般人について。一般人も京アニに個人的な思い入れのあるぼくのような人と、事件が起きるまでさして関わりのなかった人に分けて考える。

 

まず前者については極めて主観的な想いになるけれども、余計なことをしてくれるな、というのが率直な想いである。作画監督クラスの方々の安否については概ね推測できるし、キャリアの浅い方々については知る必要もないと思う。無論ご遺族が情報を発信することを望んでいるケースはその限りではないが、今回は20名のご遺族がそれを望んでいないというのが明らかになっている以上、そのご意向を汲んでそっとしておきたいという想いだ。ぼくはそういうこともあり、自主的にニュースを見るのはやめていたのだが、偶々テレビで報道を耳にしてしまい、強い不快感が湧いた。

 

一方、後者については、より詳しく報道がなさなければ実感としてこの事件の悲惨さが伝わってこないというのも確かだろう。35人の才能と熱意あるアニメーターが亡くなり、四肢切断などの言葉にしようもない悲惨な状態におかれている方々がいる。それは頭では理解できても

実感として受け止めるためには、実名や人となりをはじめとした具体的な情報が知りたい、知ることによってより理解が深まるという事実もあるだろう。ただし、ここでも強調しておくが、20名のご遺族の方々は報道を望んでいないのである。それについてはニュースではほとんど伝えない。

 

被害者に近しい方々については、想いを察するに余りあるけれども、敢えて想像するならば、ただただ深い悲しみと喪失感に打ちのめされていることだろう。犯人への怒りや故人の生き様を知って欲しいという気持ちもじきに生まれてくるだろうが、それはあくまで二次的な感情である。いち早く亡くなられた息子さんのことを知って欲しいと取材に応じていた方もいたが、四十九日すら終わっていない今の段階でその心境に当たるのはなかなかできないことだ。亡くなった方への弔いや、自身の日常生活を粛々と営んでいくなかで少しずつ次のステップに進んでいけるものだと思う。そういう状況下でそっとしておいて欲しいと考えるのは極めて自然な感情であろう。ましてや、実名報道がされることにより生じるであろうオールドメディアの慇懃無礼な取材やSNSなどの匿名メディアでの無責任な憶測など邪魔なものでしかない。少なくともある程度時間が悲しみを癒してくれるまでは、ひっそりと悲しみに向き合い続けることが残された者が悲しみを越えて生きていく最も有効な手段だと思う。

 

ではオールドメディアはどうか。彼らは事実を周知させることが使命と疑ってやまず、かつそれで飯を食う人間であるから、実名報道することに躊躇するはずもないだろう。まだ良心の呵責がある関係者もいるかもしれないが、少なくとも新聞社やテレビ局という団体としてのスタンスとしては「正義」であるというのが実際のところではなかろうか。特にこのたび京都府警という国家権力の「お墨付き」を得たことで嬉々として報道に踏み切ったことは想像に難くない。ましてや、ぼくが前のブログで触れたように、8月に入って進捗がなく「ネタ切れ」状態だったのだから。

 

以上を踏まえると、実名報道によって得をするのは、それで飯を食うオールドメディアのみと言えるだろう。敢えて厳しく言うが、オールドメディアは被害者の墓場荒らしをしたのだと考える。先の記事でも、在洛新聞放送編集責任者会議は「事件の全体像が正確に伝わらない」と主張しているが、被害者の個人情報が事件の全体像を伝えるのにマストと言い切れる根拠は何か。また、以前に日本新聞協会と日本民間放送連盟は共同声明で「実名発表はただちに実名報道を意味しない。私たちは、被害者への配慮を優先に実名報道か匿名報道かを自律的に判断し、その結果生じる責任は正面から引き受ける。」と述べているが、今回の件についてそれが当てはまると胸を張って言えるのか。

 

今回の件を受けてAbema TVで行われた議論は、肯定否定両方の立場から発言できる識者によるとても意義深いものだった。

 

 

小籔千豊「何が”知る権利”やねん」”京アニ”報道めぐってメディアに批判殺到、実名を伝える必要はどこまで?(AbemaTIMES)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190828-00010015-abema-soci

 

 

それぞれの見解は記事を参照されたいが、共通した見解は、時代に即して議論が必要だということ。オールドメディアが自発的に議論することに期待など持てないが、世論が活発になればオールドメディアも動かざるを得なくなる。なお、オールドメディア寄りの立ち位置にいるにもかかわらず、議論を重ねた結果名前を伏せたAbema TVの真摯な態度は評価に値する。

 

歴史を俯瞰すると報道が市民の知る権利を支えてきたことは確かである。だからこそ、日本のみならず諸外国でも実名報道が主流である。しかしネットにより個々人が情報発信の術を手にした今、そのあり方を見直すのは当然の話である。実名報道のあり方についても、慣習だからで通る時代ではなくなっている。オールドメディア自身だけがそのことに気づいていない。いや、気づいていながら飯の種を失うことを恐れているがゆえに固執していると言ったほうが正確かもしれない。オールドメディアの持つ情報発信力は権力であり、しばしば暴力として振る舞う。彼らが時代の変化に合わせてそのあり方を変えていくことを望む。さもなくば市民がノーを突きつけ、社会から退場いただくことになるだろう。

 

最後に、オールドメディアの本来の使命である報道の可能性について紹介している放送作家の岡野勇氏のコラムを紹介したい。

 

 

京アニ事件から1ヶ月 暴力性にメディアはどう向き合うのか(otocoto)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190825-00010001-otocoto-ent&p=2

 

 

見えない恐怖というテロの本質について誰もがどう向き合えばいいのか困惑している中、8月18日に毎日放送MBS)が報道特番として放送した『祈りの夏・聖地の声 ~京アニに伝えたい感謝の言葉~』に岡野氏は注目した。それは事件そのものに触れることはなく、京アニの作家そのもの・作品・そして作品で人生の何かが変わった受け手にフォーカスして、生み出されたものについて伝える番組だった。岡野氏は「事件について伝え続けていくことはメディアの使命だろう。だが、その“力”を紹介し、理不尽を生み出した者たちに「君のそれは無意味である」と突きつけることもメディアにやれることであるのかもしれない。」と述べているが、この点については心から同意する。

 

ぼくはかなりの怒りにまかせて今回のブログを書いた。しかし、京アニテロについては以前に書いたように、思い遣りや祈りこそがこの大きな傷を癒していける唯一の方法だと考えている。いま必要なのは意味のない事実や紋切り型の悲劇を伝えることではなく、被害者と近しい人々を最大限に守ること、そして作品からもらった喜びや笑いや希望を再確認すること。ここにいる一京アニファンの想いが一人でも多くの人に届くことを願っている。

 

京アニテロを超える(4)おわりに

●おわりに

ここまで様々な識者の意見を紹介しながら、ポスト京アニテロの世界での生き方について拙い考えを述べた。結論と呼べるようなものは未だ提示することはできないけれど、歳月の風雨から生き残ってきた宗教にヒントがあるのかもしれない、と無神教のぼくは思った。川崎殺傷事件で標的になったカリタス学園はカトリックである。そのOGであるノンフィクションライターの飯島裕子氏の以下の記事を紹介したい。

 


カリタス学園「愛の教え」さらなる分断を生まないために

https://news.yahoo.co.jp/byline/iijimayuko/20190530-00127918/

 


>カリタス学園の教育は、他人を自分のように愛することで社会の分断をつくらない、生きづらさを抱えた人に寄り添う、教育であったとあらためて思う。

 


念を押しておくが、京アニテロにおいて青葉真司が犯した罪は生半可なことで贖われるものではない。京アニのスタッフの方々はぼくにとって大切な人たちであるし、ぼくの近しい人が同じような惨禍に巻き込まれたら正気でいられるか自信はない。しかし、それでもなお、憎悪で悲しみを癒すことには否定をする。他者を、そして自己を思い遣ることを始めよう。例えそれが殺したいほど憎かったとしても。

 

京アニテロを越える(3) 「ポスト京アニテロ」をめぐる言論

●「ポスト京アニテロ」をめぐる言論

ぼくが一番声を大にして言いたいのは、「犯人探し」ではなく、この筆舌に尽くしがたい悲しみと絶望をどのようにして克服していくかである。また、地下鉄サリン事件などの無差別殺人テロを複数経験しながら、それでもなんとなく「安全」という安心感のあった平成が過ぎ、もはや安全など幻想であるという事実を突きつけられた令和の日本において、我々はいかに生きるべきか、ということである。それには、医学における対症療法と予防医学の両方の見地から考える必要がある。


対症療法的見地としては、犯罪者に対しては刑罰が相当する。しかしこれは法学の領域であり、ぼくの専門外であるからここで言及するのは控える。また、被害者に対しては被害者保護が相当するだろう。被害者報道の是非の問題もあるが、あまりに問題が多岐に渡るため、これもここでは一旦触れないことにする。なお、再犯防止の方策については、龍谷大矯正・保護総合センターの浜井浩一センター長の以下の記事がとても示唆に富んでいるので参照されたい。

 

「踏みとどまれる社会を」 京アニ事件きっかけに考える 龍谷大教授インタビュー(47NEWS)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00000001-yonnana-soci


ここでは予防医学的見地から何ができるのかについて、考えてみたい。ぼくが懸念しているのは「無敵の人」の増加にある。失うものが何もない人は殺人やテロに抵抗がない。その気持ちは痛いほどよくわかる。他ならぬぼく自身が「無敵の人」予備軍であるという自覚もある。(ぼくはテロを起こす口実も気力もないけれども)


ひとつ気にかかるのが、ロスジェネ問題である。青葉真司は41歳。世代のど真ん中である。青葉がロスジェネ特有の不利益を被っていたのかは今の段階では何も言えないので、短絡的に結びつけるのは危険であるが、根っ子の部分で繋がっているという確信がぼくにはある。


例を挙げよう。橋下徹氏は、青葉に向けて「一人で死んで欲しい」と述べた。極めて現実的な感想であると思う。誰が考えても無辜の民が犠牲になることか望ましくないことは当然である。当人が破滅を願っていたのであれば、被害は最小限なのが望ましいだろう。しかし、この思考こそが「無敵の人」を焚きつける最も危険な思想であると断言したい。正解は、「誰も死ぬべきでない」のである。まず社会全体がコンセンサスとしてその発想を共有しない限り、安全な社会などまず実現は不可能だろう。

 

5月に発生した川崎通り魔事件で、藤田孝典氏の提言が物議を醸したことは記憶に新しい。藤田氏は「死にたいなら一人でという発言を控えて欲しい」という主張をしたが、ぼくの考えもこれに近い。遺族感情を逆撫でしているとか、そもそも凶行を起こすような人間には通用しないといった批判が多く寄せられた。確かに「一人で死ね」という発言を控えたところで京アニのテロを防ぐことはできなかったと思う。しかし、「誰も死ぬべきでない」と社会全体が考える土壌と、そのシステムを作ることが凶行を未然に防ぎ、安全な社会への近道となるとぼくは思う。それは性善説的な理想論かもしれない。しかし、近しい人が無事でいさえすればよい、知らない人に対して「一人で死ね」と言い放つ先に安全な社会が実現するとは到底思えないのだ。ロスジェネ問題も含めた、福祉という観点から考えるならば、社会民主主義的な方向性が望ましいのかもしれない。ただ、ぼくは政治については言及はしたくない。もっとミクロな視点から少しでも安全な社会が実現できないかを考えたい。


東浩紀氏は、京アニ作品に通底する「やさしさ」をキーワードとして挙げた。

 

 

東浩紀京アニ事件には憎悪ではなく穏やかなやさしさを」〈AERA〉(AERA dot.)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190807-00000017-sasahi-soci

 

 

気鋭の批評家としてはいささか緩いコメントだが、あいちトリエンナーレの件で疲弊しているのだろう。落ち着いたらもっと強靭な論を展開してもらいたい。行間を読み取ると言わんとしていることはよくわかるし、同意できる。少なくとも憎悪に憎悪で立ち向かうことは何らよい結果を生まないことは歴史を紐解けば自明である。


また、怒りという観点から、我々が怒りをうまく制御していくことを提言しているのが、元DV加害者という特異な経歴を持つカウンセラー・中村カズノリ氏である。

 

 

京アニ放火への怒りから抜け出せない」私たちにいま必要なアンガーマネジメント術

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190804-00013240-bunshun-soci

 

 

ここでは怒りを分析して感情のベクトルを変える具体的な手法が述べられている。それは被害者支援のみならず、加害者を未然に防ぐことにも有効であるように思える。また、第三者である我々がニュースを通じて刺激される怒りを制御することにも役立つだろう。

京アニテロを越える(2) 言論の「勇み足」

●言論の「勇み足」

我が国の犯罪史上最悪のテロとなってしまった今回の事件であるが、様々な問題を孕んでいる。とりわけ多くの人が関心を抱いているのは、実行犯たる青葉真司の生い立ち、人柄、テロ行為に至った思考のプロセスであろう。京アニの小説公募に投稿していたり、「聖地巡礼」をしていたりと、断片的な情報は出てきているが、重篤な状態にある当人への取り調べが進んでいない現段階では憶測しかできないし、それはするべきでない。


そうした「勇み足」をした悪しき例を教訓として挙げておく。一人は、純丘曜彰氏。東大哲学科で学び、メディア・映像系の哲学を研究している大学教授である。問題となったのは「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」と題するコラムである。以下、特に問題となった部分を引用する。

 


「いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う」

 


要するに、京アニの作るアニメは現実逃避の夢物語であり、それは麻薬に等しいと述べているのである。


ぼくは「けいおん!」にどっぷりはまった人間として真っ向から反論したい。確かに「けいおん!」は演出こそリアル志向であるが、ストーリーは極めて理想主義的である。例えば高校生が主人公なのにもかかわらず不自然なくらい男性が登場しないし、恋愛要素など以ての外である。ストーリーは日常の何気ないやりとりやバンド活動の中での人間関係をメインに流れていく。しかし、なぜそれが麻薬と非難されなければならないのか。


けいおん!」をリアルタイムで観ていたときぼくは既にアラサーであった。理想的な「夢物語」であることは百も承知で、だからこそ現実の醜い人間関係を一時でも忘れられる時間として幸福な思いをさせてもらってきた。それは、毎日を生きる活力にもなった。その点について批判されるべきことは何一つない。まして、それが放火テロの原因を生んだかのような言いようは極論暴論もいいところである。一応フォローしておくと、純丘氏は当該記事について削除訂正の後謝罪している。ぼくは未だに人格を疑っているけれど。


もう一人は、山本寛氏である。山本氏は京大哲学科出身。2007年まで京アニに在籍し、途中降板したものの「らき☆すた」の監督も務めた。問題になったのは、7月27日に投稿された「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」と題するブログである。以下、一部抜粋する。

 


僕はこのカタストロフを、「ぼくたちの失敗」に対する「代償」だと、敢えてここで断言する。

(中略)

どんな危険を孕んでいるか想像もつかない「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした時点で、僕たちの命運は決まっていたのだ。

 


山本氏の主張も、純丘氏の主張に似ていることにお気づきだろうか。「アニメオタク」に制作側が阿った結果が今回の事件の遠因という主旨である。両氏がお互いの主張を知っていたかは定かではないが、このような酷似した暴論が時を同じくして世に発せられたことに頭を傾げざるを得ない。ただ、山本氏について付記しておくと、彼は京アニで監督を実質的に更迭された後、アニメ作家としては興行的にも内容的にも誰が見ても失敗と言わざるを得ない活動を続けている。(ぼくは一本も視聴していないのであくまで客観的な評価であるが)そうしたルサンチマンの蓄積がこのような暴論に至ったとするのならば極めて情けないことである。Twitterエゴサーチしては批判に噛みつき、自らの作品を評価するツイートをリツイートする暇があったら作品の構想でも練ったらどうなのか。


両氏の発言については、作曲家であり東大准教授である伊東乾氏がやんわりと否定している。少し冗長な文章だが、アニメ史と視聴者の関係性についてよくまとまっているので参考にされたい。

 

「オタクの終焉」で済ましてはならない京アニ放火殺人事件(JBpress)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190802-00057195-jbpressz-soci


余談ではあるが、両氏は風貌が似ており、共に哲学科出身という不思議な符合がある。風貌はさておき、同じ哲学科出身者として忸怩たる思いがする。せめて自分だけでも良識ある人間でいなければと襟を正す。


まとめると、アニメという文化から今回の事件を分析するのはあまりに危険で、かつ時期尚早だということである。何かしらの因果関係があることはぼくも感じてはいるが、少なくとも主観で軽々しく口にすべきではない。良識があり文化に造詣の深いプロの批評家が数年かけて挑むべきことであると思う。

京アニテロを越える(1)事件発生からのできごと

京都アニメーション放火殺人テロ(敢えてテロと呼ぶ)から一ヶ月が経った。ぼくは事件が発生して以来、一日もこの事件について考えなかったことはない。報道を逐一チェックしては色々思いを巡らせ続けた。ただ、実行犯である青葉真司が重篤な状態にあり、捜査も全くと言ってよいほど進まない状況で、憶測で発言するのはリスクが伴うと考え、口をつぐんできた。しかし、先に述べたように事件の解明にはかなりの長期化が予想される現状で、例え憶測の域を出ないにせよ、ここで「中期報告」を一旦まとめておくことが、何よりも自分自身にとって必要だと思い、筆を執ることにした。我々はいつまでも悲しみにくれているわけにはいかない。先へと歩み出さなければならない。


●事件発生からのできごと

事件当日からの経過については、こちらの京都新聞の記事中の表がまとまっているので参照されたい。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00010001-kyt-l26

ここでは、あくまでぼく自身の眼が見た事件をめぐる社会の動きをまとめた。よってバイアスのかかったものであり、過不足があることは予めご承知頂きたい。

ぼくが第一報を目にしたのは、7月18日(木)11時過ぎ、出先でyahooニュース経由で京都新聞の記事からだった。「京都アニメーションのスタジオで火災 「爆発音」の通報、負傷者複数」(リンク切れ) その時点でのTwitterの反応ではまさかこのような大惨事になろうと捉えていた人は少なく、ボヤが起きたのだろうくらいの認識で、揶揄するようなコメントも多々みられた。

12時過ぎになり、死者が複数との報道が入る。「京アニ火災、数人死亡の情報 確保の男「液体まいた」(朝日新聞デジタル)」(リンク切れ) このあたりから不穏な空気が流れはじめる。ただ、未曾有の大惨事になるとまではぼくは予想できなかった。

14時ころ、10人死亡との一報。「スタジオ火災、10人死亡か(共同通信)」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190718-00000093-kyodonews-soci

この時点でぼくは絶望感に打ちひしがれた。通例事故報道で犠牲者の人数はどんどん増えていくからだ。

時を同じくして、著名なスタッフの安否情報や、内外を問わず著名人からのお悔やみのコメントが発表される。犠牲者33人との報道。

翌19日。青葉真司の氏名が公表される。犠牲者34人に。京アニ八田社長がコメント。(京都新聞より)https://s.kyoto-np.jp/politics/article/20190719000166

21日、参院選投開票。日本テレビバンキシャ」内でナレーターの大塚芳忠氏(「日常」などに出演)が、異例ともいえる自身のコメントを述べる。https://youtu.be/G-2yCaMD2dY

大阪芸大教授純丘曜彰氏、「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」と題するコラムを公表。

22日。事件の証言や、被害者支援についての報道が増え始める。「京アニ放火「2階から飛び降りた」迫る黒煙、決死のダイブ 男性社員が証言(産経新聞)」、「京アニ放火 難航する身元確認 DNAも…京都府警(産経新聞)」、「京アニ、専門家招き従業員の心のケア(読売新聞オンライン)」(以上リンク切れ)

NHKクローズアップ現代」で特集。「京都アニメーション世界に広がる支援の輪」https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4312/index.html

24日、京アニが募金口座を開設。NHKが事件当日取材予定だったことが明らかに。Yディレクターの関与がTwitterを中心に噂される。

25日、京都府警が犠牲者全員の身元特定も公表を見送る。「京アニ放火 特定難航、遺族に配慮 発生1週間も身元公表至らず(産経新聞)」「放火、犠牲者34人身元全て特定 容疑者、3日前には京都に(共同通信)」(以上リンク切れ)

純丘曜彰氏のコラムが物議を醸す。「京アニを「麻薬の売人以下」呼ばわりの大芸大教授コラム 削除→再掲載→削除・謝罪のドタバタさらす(J-CASTニュース)」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190725-00000013-jct-soci

26日、「NHK京アニ放火当日に取材予定=番組の制作依頼で(時事通信)」、「京アニ放火容疑者の意識戻る なお重篤、回復待ち逮捕へ(朝日新聞デジタル)」(以上リンク切れ)

27日、犠牲者35人に。橋下徹氏の発言。「橋下徹氏、京アニ放火事件で青葉容疑者へ「一人で死んで欲しい。他人を犠牲にしていいのか?社会でこういうことは言い続けるべき」(スポーツ報知)」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190727-00000057-sph-soci

純丘曜彰氏、コラムについて弁明。「「麻薬の売人以下」は「京アニのことではない」 純丘曜彰・大阪芸大教授、炎上コラムの真意語る(J-CASTニュース)」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190727-00000006-jct-soci

28日、青葉真司が京アニファンであった可能性が示唆される。「京アニ放火、犯行前に「聖地」巡る? 手ぶらで歩く容疑者、防犯カメラに(京都新聞)」(リンク切れ)

29日、サーバーから原画データがサルベージ。「焼損免れたサーバーから原画データ回収に成功 京アニ朝日新聞デジタル)」(リンク切れ)

山本寛氏、自身のブログで「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」を発表。2019-07-29 10:48:19僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」69

30日、「京アニ、容疑者と同姓同名の小説応募を確認 「小説パクられた」発言を裏付けか(京都新聞)」(リンク切れ)

8月に入り、事件の真相の解明が進まないこともあり、報道の割合も徐々に減り始める。

2日、遺族の了承を得られた犠牲者10人の氏名公表。武本康弘氏や西谷太志氏などが犠牲に。「犠牲者10人の氏名公表 京アニ放火殺人で府警 「ハルヒの消失」の監督も(京都新聞)」(リンク切れ)

4日、フジテレビが番組のテロップであり得ないミス。「京アニ武本監督死去でフジ誤報「あんなアホいない」と伝える(女性自身)」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190804-00010005-jisin-soci

10日、「京アニ容疑者 一時的に意識回復「痛い」(産経新聞)」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190809-00000608-san-soci

18日、「京アニ放火殺傷事件から1カ月…MBSが18日深夜特番 作品の原点を辿る」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190816-00000202-spnannex-ent

19日、京アニが事件現場の献花台を25日をもって設置終了することを発表。http://www.kyotoanimation.co.jp/information/?id=3089