京アニテロを越える(2) 言論の「勇み足」

●言論の「勇み足」

我が国の犯罪史上最悪のテロとなってしまった今回の事件であるが、様々な問題を孕んでいる。とりわけ多くの人が関心を抱いているのは、実行犯たる青葉真司の生い立ち、人柄、テロ行為に至った思考のプロセスであろう。京アニの小説公募に投稿していたり、「聖地巡礼」をしていたりと、断片的な情報は出てきているが、重篤な状態にある当人への取り調べが進んでいない現段階では憶測しかできないし、それはするべきでない。


そうした「勇み足」をした悪しき例を教訓として挙げておく。一人は、純丘曜彰氏。東大哲学科で学び、メディア・映像系の哲学を研究している大学教授である。問題となったのは「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」と題するコラムである。以下、特に問題となった部分を引用する。

 


「いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う」

 


要するに、京アニの作るアニメは現実逃避の夢物語であり、それは麻薬に等しいと述べているのである。


ぼくは「けいおん!」にどっぷりはまった人間として真っ向から反論したい。確かに「けいおん!」は演出こそリアル志向であるが、ストーリーは極めて理想主義的である。例えば高校生が主人公なのにもかかわらず不自然なくらい男性が登場しないし、恋愛要素など以ての外である。ストーリーは日常の何気ないやりとりやバンド活動の中での人間関係をメインに流れていく。しかし、なぜそれが麻薬と非難されなければならないのか。


けいおん!」をリアルタイムで観ていたときぼくは既にアラサーであった。理想的な「夢物語」であることは百も承知で、だからこそ現実の醜い人間関係を一時でも忘れられる時間として幸福な思いをさせてもらってきた。それは、毎日を生きる活力にもなった。その点について批判されるべきことは何一つない。まして、それが放火テロの原因を生んだかのような言いようは極論暴論もいいところである。一応フォローしておくと、純丘氏は当該記事について削除訂正の後謝罪している。ぼくは未だに人格を疑っているけれど。


もう一人は、山本寛氏である。山本氏は京大哲学科出身。2007年まで京アニに在籍し、途中降板したものの「らき☆すた」の監督も務めた。問題になったのは、7月27日に投稿された「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」と題するブログである。以下、一部抜粋する。

 


僕はこのカタストロフを、「ぼくたちの失敗」に対する「代償」だと、敢えてここで断言する。

(中略)

どんな危険を孕んでいるか想像もつかない「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした時点で、僕たちの命運は決まっていたのだ。

 


山本氏の主張も、純丘氏の主張に似ていることにお気づきだろうか。「アニメオタク」に制作側が阿った結果が今回の事件の遠因という主旨である。両氏がお互いの主張を知っていたかは定かではないが、このような酷似した暴論が時を同じくして世に発せられたことに頭を傾げざるを得ない。ただ、山本氏について付記しておくと、彼は京アニで監督を実質的に更迭された後、アニメ作家としては興行的にも内容的にも誰が見ても失敗と言わざるを得ない活動を続けている。(ぼくは一本も視聴していないのであくまで客観的な評価であるが)そうしたルサンチマンの蓄積がこのような暴論に至ったとするのならば極めて情けないことである。Twitterエゴサーチしては批判に噛みつき、自らの作品を評価するツイートをリツイートする暇があったら作品の構想でも練ったらどうなのか。


両氏の発言については、作曲家であり東大准教授である伊東乾氏がやんわりと否定している。少し冗長な文章だが、アニメ史と視聴者の関係性についてよくまとまっているので参考にされたい。

 

「オタクの終焉」で済ましてはならない京アニ放火殺人事件(JBpress)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190802-00057195-jbpressz-soci


余談ではあるが、両氏は風貌が似ており、共に哲学科出身という不思議な符合がある。風貌はさておき、同じ哲学科出身者として忸怩たる思いがする。せめて自分だけでも良識ある人間でいなければと襟を正す。


まとめると、アニメという文化から今回の事件を分析するのはあまりに危険で、かつ時期尚早だということである。何かしらの因果関係があることはぼくも感じてはいるが、少なくとも主観で軽々しく口にすべきではない。良識があり文化に造詣の深いプロの批評家が数年かけて挑むべきことであると思う。